所有欲という『呪い』―トルストイの散歩道・人にはたくさんの土地がいるか
月曜日です。月曜日が街にやってきた。
執行猶予は残り半年ということで、もう少し規則正しい生活を送れるようになりたいなぁと願う今日この頃であります。
今日紹介させていただく本はこちら。
突然ですが、皆さんの願いはなんでしょう?
(すみません、怪しい投資商品の紹介をしようとか、「会社員なんてやめて好きなことで生きていきましょうよ!」みたいな勧誘をするつもりはありません)
僕ですがこれですね、
はい、い つ も の
芸がない と批判されそうですが、欲しいんだから仕方ない。
あとは
・人生をっょくてNEW GAME 状態にしたい!
・来世は地主の息子に生まれたい!
・来世は東京のイケメン男子にしてください!
などでしょうか…あまり書くときりがなさそうなのでここまでにしておきます。
本題に入ります。
今日紹介させていただく本は
「トルストイの散歩道・人にはたくさんの土地がいるか」
です。
あらすじ(超簡単)
百姓だったパホームは自分の暮らしむきをもっと良くしたいと思っていました。そこに簡単にそして安くめっちゃええ土地が永久に我が物になるで!という儲け話が舞い込んできます。その話を聞いたパホームは約束の地・バシキールへと向かうのですが…
あらすじ(長め)
このお話は都会に住む商人と結婚した、金持ちで都会住みの畜生のアッネが百姓と結婚し田舎住まいだった妹に対して
「農民貧乏すぎだし、豚や子牛なみの生活じゃねぇかwww」 m9(^Д^)プギャー
という煽りをするところから始まります。
妹の亭主、パホームは借りていた土地で耕作が出来なくなるかもしれない、という危機に立たされたことで借金をして土地を購入することを決めました。
晴れて地主となったパホームですが、百姓たちと土地のことでいざこざに巻き込まれてしまい、さらにみんなが新しい土地に移住するという噂を聞いて「移住した人の土地をかって暮らし向きをよくしたい」と考えるようになります。
しかし、その後に来た旅人の話を「ずっと南の方にはもっと上等な土地があるぞー」という儲け話を聞いて新しい土地へと移住することにします。
新しい土地に移住したパホームの暮らし向きは昔と比べて10倍もよくなりましたが、ずっと住んでいるうちにやっぱりその土地でも狭いように感じられてきました。
小麦はたくさんとれましたが、パホームは「土地のことで面倒な目にあってしまうのもいやだし、永久にわがものになる土地が欲しいなぁ」と考えるようになりました。
百姓たちと裁判沙汰になってせっかくの苦労が無駄になったパホームは
「これが自分の土地だったら、だれにも頭を下げなくてもいいし、こんな馬鹿な目にもあわなかったろうに」―p.20
と考えました。
永久に自分のものとして買える土地がないか、と探し始めたパホームの目の前にある旅の商人が現れました。その商人曰く、彼はパホームが買おうとしていた10分の1の値段で、バシキールというところにある非常に広くとびっきり上等な土地を手に入れたというのです。
商人は語りました。「ほんのちょっとお年寄りの機嫌をとっただけでさあ。ガウンだの敷物だの百ルーブリぐらいと、それにお茶をひと箱送って、お酒好きにはお酒を飲ませておいて、一ディシャティーナを二十カペイカ(パホームはこの10倍で土地を買おうとしていた)で売ってもらいましたよ」―p.21
パホームはその話を聞き、約束の地バシキールへ向かうのですが…そこでパホームを待ち受けていた運命とは。
この先は、著作権とかありそうなので伏せておきます。もし気になった方がいましたら、図書館やAmazon等を利用してみてください。
所有欲はどこまで達成されば満たされる?
当初は一介の百姓に過ぎなかったパホームですが、リスクを背負って地主となり、よりよい生活ができるようになったことで「もっといい生活がしたい」と思うようになります。そして、「永久に我が物になる土地があればなぁ」と思うようになるのですが、パホームにとってのゴールはどこにあったのでしょう?
これはパホームに限らないことですが、一つの欲が満たされると、さらにその上の欲を満たそう、あれがない、だからあれが欲しい、これがない、じゃあこれが欲しいとなってしまいがちです。
僕の場合だと「もっと才能が欲しいなぁ…」とかが当てはまるのかも。
所有欲という『呪い』
所有欲に限らず、『欲』というモノは決して悪いものではありません。何かをしたい、何かになりたい、という願望や欲は人を動かすエンジンとなりえます。
しかしそれは一種の『呪い』なのかもしれない―と僕はこの本を読んで感じました。ゲームとかでよく見るような
フ ハハ! 暗黒の力を手に入れて俺は強くなった! もはや敵はいない!
的な感じですね(いわゆる暗黒面のパワーは素晴らしいぞ状態)
なんで『呪い』と表現するかというと、力を得る代わりにその代償も大きくなってしまうんじゃね?と僕は思ってしまうのです。
ある程度のところで満足をして、欲を満たすことを覚えないと欲に飲み込まれてしまう―これが最も怖いことではないでしょうか。
やっぱり人にはそれぞれの『器』があって、欲とかをドバドバと流し込める量に限界があるんじゃないかなぁって僕は思います。その器を超える量の欲を―身の程知らずな欲望とも表現できるかもしれません―注ぎ込むと、溢れてしまうのかな、と。
結局のところは『足るを知る』ということに帰結するのかもしれませんね。
ただここで1つ疑問なのはこの世にはいわゆる勧善懲悪モノというのがごまんと溢れていて、それを観たり読まなかったりした人はいないと思うんですが、どうして目をそむけたくなるような不正をしたりえげつないくらい自分勝手な人がいるんでしょう??
そうした大人にはならないようにしたいものですが。
彼らには彼らなりの事情があるのかもしれません。
そしてその理由を僕はいつか知ることになるのかもしれないのです。
今日の鬱:ブログ書くのに時間がかかった割に内容がしょうもない(14鬱)