大学の研究の絶対的正当性を主張する人々は大卒者の希少性を忘れているのではないか―
ねむいいいいいいいいいいいい。
最近予定が立て込んでてイライラするんですが、がんばります。
最近のインターネットでは「大学の研究にお金を回すべきだ」みたいな意見をよく見ます。いいことですね、大学で研究に励む人に対してお金が行き届くのは非常に良いことです。それと同時にそうした学問や研究の正当性を主張する人も多く見られます。
Q. ニュートリノだのヒッグス粒子だの研究して、なんの役に立つのですか?
— 高木壮太 (@TakagiSota) 2017年10月31日
A. 電波が発見された時も、あなたと同じ質問する人が佃煮にするくらいたくさんいました。 pic.twitter.com/FTxqeqKqF7
いいですね。
ですが…
そうした人の中にはある視点が欠けているのではないでしょうか?
それは
大卒者はマイノリティである
という事実です。
最終学歴分布をグラフ化してみる(2017年)(最新) - ガベージニュース より。
2010年国勢調査によれば、15歳以上人口に占める大卒者の割合はわずか2割に過ぎません。
つまり日本人のほとんどは現時点では大卒以下の人々のほうが多いのです。
現在の日本では大卒進学率は上昇しており、この割合は将来的には50%近いものになるでしょう。
http://eic.obunsha.co.jp/viewpoint/201403viewpoint/ より。
それでも5割です。ということはいくら声をあげ、『学問的意義』とやらを主張したとしても、「いや、そんなもん知らんがな」みたいな発想になる人はいるということです。
大学には多くの税金が投入されています。
当然ですが、国が教育に対してお金をつぎ込むのは当然のことです。そうした人材の育成は国家の成長には欠かせません。
しかし、いくら『学問的意義』があるからといって多額の国民の税金を大学につぎ込むことは”大学に関係のない”多数の国民にとって納得のいくものでしょうか?
”大学に関係のない”多数の国民にだって生きてきた、というプライドがあります。その中には「大学なんていらない、金のムダだ」と考えている人だっているでしょう。それは当然の感情です。
その人の人生に大学教育というのは全くの直接的影響を与えなかったのですから…(間接的影響は当然あるでしょうが)
そういった人たちの意見に対して「あいつらは無教養だからw大学の存在意義なんてわからんよw」みたいな態度はどうなんでしょうか、そういったことは言っていないとしてもどこかにそうした「お前らにはわからんで結構」みたいな感情があるのではないでしょうか?
日本における大学教育はまさに曲がり角に立っていると思います。今後大学の置かれる状況が好転することはおそらくないでしょう(こと文系に関しては)。
どういった『成果』を大学が出すのか、ということに注目したいです。
最後にこの記事を少し紹介します。
哀しいかな、インターネットの存在はこの『分断』の存在をさらに際立たせてしまいました。非常に皮肉なことです。
学歴というのは「飛行機の両翼」のようなものであるという意見があります。僕はこれに賛成です。つまり大卒者だけ良い生活を送っても国という飛行機は傾いてしまいます。大卒と高卒、この両翼がバランスをとってこそ国という飛行機はバランスよく飛ぶことが出来るのではないでしょうか。
もはやこれまで。
今日の鬱:ぼんやりとした不安が頭の中に霧のようにかかっている。(測定不能)